Giants #02

Standing on the shoulder of giants.

ぼくたちは偉大な先人たちの肩に乗っかっている。いかに新しいことを生み出したのだ!と主張しても、それは先人たちのgreat workがなければなしえなかっただろう。一方で、先人たちの肩の上にいるからこそ、生まれ得ないものもまたある。

ここでは、主に、写真に関わる先人たちについて、書いていく。ただ、写真の歴史についての講義のような内容であれば、その手の書籍を読んだほうが正確だし、まとまっているので、ここでは、ぼくが好きな写真や言葉を紹介したいと思う(写真はPublic Domainのみなので、ここで実際にお見せ出来る写真は限られるだろうが。)

今回は、William Henry Fox Talbot(以下、トルボット)。写真機の原型、カロタイプの生みの親である。前回紹介した「ダゲレオタイプ」とは、原型、オリジナル争いのライバル、と言ってもいいかもしれない。彼の写真を紹介する。

何の変哲もない写真に思われるかもしれない。前回もそうであった。そう感じられるのは、写真を撮ることが日常的で、誰でも撮れるようになった証左かもしれない。

実はこの写真、世界で最初の写真集に収録されたものだ。その名は『自然の鉛筆』(原題:”The pencil of nature”)。1844年から2年にかけて、全6冊が刊行された。

この写真集では、トルボットの発明したカロタイプにより撮影された写真が多く使われている。というよりも、そもそも、『自然の鉛筆』はカロタイプの教則本のような位置付けである。カロタイプは世界初の複写可能な写真機であった。であるので、技術的な面から、写真機をどう扱えばいいのかが図版とともに示されている。

では、この何の変哲もない写真をなぜ取り上げたのか。その理由は、この『自然の鉛筆』というタイトルにある。

トルボットには共同開発者がいた。科学者のハーシェル(John Frederick William Herschel, 1792-1871)がその人である[*3]。なぜ科学者と?と思われるかもしれないが、フィルム写真を現像されたことのある人が分かる通り、写真の撮影と現像とは(大雑把に言って仕舞えば)光を用いた化学反応プロセスを利用した技術である。光の像を写しとり定着させるには、光学や化学の知識が必要であったのだ。

なぜハーシェルの話を持ち出したかというと、実は、そのハーシェルこそ研究発表において、今私たちが使っている「photograph(写真)」, 「photography(写真技術)」などの用語を歴史上、初めて使用した張本人だからである[*4]。

特にここで取り上げておきたいのは、photographの語源である。photographは、photo(光)とgraph(書く、描く)からなっている。つまり、photographは、「光で(を)描く」技術であるとして、この世に現れた言葉である。(なお、「写真」という日本語訳は、この英語の語源からするといささかピントがずれているとも言えなくもない)

この「光で(を)描く」ということと、『自然の鉛筆』という書名を照らしてみれば、この写真の像がより鮮明に浮かび上がってくる。つまり、写真機によって、「今まで鉛筆で描いていたものを、光=自然の力で描けるようになった」ということである。それが何の変哲もない被写体であったとしても。

実のところ、ダゲレオタイプ、カロタイプなどの写真機の登場前には、カメラオブスクラという写真機の始祖のようなものがあったのだが、このカメラオブスクラは、レンズ穴を通して像を写し、その像を人の手で筆を使い写しとっていたのである。光の像を鉛筆でなぞるような形で作業していたのだ。

他方、カロタイプは現像板(今でいえば、フィルムやデジタルセンサーなど)にうつしとったものをそのまま印画紙にプリントするだけで良いのだ。職業画家はさぞかし、その食い扶持の変化に戸惑ったであろう。なぜなら、画家が緻密な風景画を時間をかけて描くよりも時間がかからず、さらに使い方さえ覚えてしまえば誰でも撮影できてしまうようになったのだ。(今の言葉で言えば、破壊的イノベーションである。そう考えると、『自然の鉛筆』は、今でいえばMacやAdobeの制作用アプリの教則本のようだとも思えてきて、親近感が湧く。)

何の変哲もないものを、人が手間暇かけて描くということから、自然が描くということができるようになった。そういう意味で、『自然の鉛筆』は、「人の手や筆を使わずに被写体を描けるようになったのだ」、ということを表す最高の書名ではないだろうか。

しかし、ここまで整理してきて、問いが浮かび上がってきた。

『自然の鉛筆』とは、文字通り読めば、「自然が光という鉛筆を使って、世界を描写する」ということを表している。だとすると、写真(photograph)の主体とは誰なのだろうか?

確かにカメラのシャッターを切るのは人であるかもしれない。だが、本当に人が撮っているといえるのだろうか?人の手を介して、自然が撮っているのではないのか?より哲学的に考えるのであれば、人とは、主体とは、自然とは何だろうか、ということでもあろう。(しかし、哲学における中心であるような気もするのでここでは深くは問うことはやめておこうと思う)

「僕たちが撮る写真は、果たして僕たちが撮っているといえるのだろうか?」

写真を撮ることとは、本当に不思議な行為である。

[*1] Wikipedia commons
(https://commons.wikimedia.org)

[*2] The Met Collection
(https://www.metmuseum.org/art/collection)

[*3] トルボットが協力を得たハーシェルは、実は、かの有名な天文学者ウィリアム・ハーシェルの息子である。ハーシェル父は、天王星を発見している。

[*4] 1839年3月にはその記録があるとされている。他にも、negative(ネガ)、positive(ポジ)などの用語もハーシェルの研究によるもののようである。(三井圭司著、東京都写真美術館編『写真の歴史入門 第1部「誕生」新たな視覚のはじまり』(新潮社)p.33より)

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