道草を食うという行為の表現、非意図の表現。
記憶とはとてもおもしろい。文献調査を進めながら、当時の記憶がすくいあげられる。すくいあげられた記憶は、身体的であって、匂い、暑さ寒さ、日の光の感じ、風の冷たさ、水の滑り、土の重さなどが思い起こされた。そして、実際のフィールドにでて、写真を撮影した。写真によって、その記憶は(固定化=フィルムに感光され印画紙に定着化された)ものと見ていいのだろうか。
このように、行為と記憶に関わる問題をどのように表現することができるのか、それはまた一つの問題である。道草を食うことでいえば、「わたしにとっての”道草を食う”という行為・記憶はどのように記録したり、表現することができるのだろうか」ということである。特に、道草を食う、という行為は、ある種の偶然性に左右される。というよりも、意図的な行為であると言いにくい面があるといった方がいいだろうか。言い換えれば、意図的に「道草を食おうぜ」といって道草を食おうとしたところで、それは道草を食うことなのだろうか。
ゼミでの発表でも、この点は議論となり、10名ほどの大人が感じている印象としては、「意図的となった時点で、それは道草を食うことではなさそう」ということであった。もし、この感覚が正しいとするならば、道草を食うことを記録することは技術的に困難であるかもしれない。道草を記録しようとすると、意図が入り込んでしまうため、道草を食うことにはならないのである。結果、記録されたものは道草を食うことの行為・記憶を記録したものではない。もし、道草を食うことが非意図の行為であるならば、非意図をどう表現するか、ということが表現の問題として現れてくる。
言葉、絵、写真、、、、一つ一つの方法で描写自体はできるであろう。だが、それが果たして道草の記憶・行為をどのように表すのか、この点は探究と(中間)制作を進めながら考えていきたい。
<#02 へ続く>