Jan. 2019
「小学生の頃の登下校路の記憶」
記憶を辿りながら、実際の登下校路の地理について調べようと思い、まず、わたしが通った小学校のある熊谷市について調査した。
登下校路周辺の気候と地理
調査を始めると、熊谷市は江戸時代から交通の要所として栄えていたようだ。生活している中でも、街道の名前に始まり、石碑や一里塚などの史跡も残っており、これは熊谷市に住んでいた頃から比較的意識していたことでもある。
”江戸時代には中山道の宿場・熊谷宿が置かれ、宿場町として栄えた。現在でも市内には国道17号をはじめとする4本の国道(および各線の計6つのバイパス)、9本の主要地方道、上越新幹線をはじめとする3本(JR上越新幹線・JR高崎線・秩父鉄道秩父本線)の鉄道路線が通過しており、交通の要衝としての役割を果たしている。”
(Wikipediaより)
気候の面ではどうか。とにかく、夏は暑いことが有名であり、「暑いぜ、熊谷」なる町おこしの活動もある。記憶によるものでも、とにかく暑かった。海が近くにあるわけではなく、遮蔽物もあまりないので、とにかく暑さが直に伝わってくる感じだ。空気が止まっているような感じがして息苦しい暑さである。
”熊谷が高温となるのは、海風に乗り北上してくる東京都心のヒートアイランド現象により暖められた熱風と、フェーン現象によって暖められた秩父山地からの熱風が、一般的に日中の最高気温となる午後2時過ぎに同市の上空付近で交差するためだと考えられており、「熱風の交差点」と呼ばれることもある”
(同上)
暑さがどうしても先立ってしまうが、春から初夏にかけては、田畑が青々と広がっていて、用水路からは水の音がする。土の匂いや青草の匂いがする。冬は降雪が多いわけではないが、乾燥しているため、風をより冷たく感じる。群馬県の赤城山から吹き下ろす風を「赤城おろし」などと呼ぶ人もいた。後に写真もあげているとおり、一面と広がる田畑は乾いていてそのうえを空っ風が通り過ぎていくので、ある種の荒涼さも感じさせると言えばよいだろうか。
地理として特徴的なのは、熊谷市は二つの大きな河川に挟まれていることだ。荒川と利根川である。
”市域の約3分の2が北端の利根川と南側の荒川とに挟まれた地域であり、ほか約3分の1が荒川の南側に、残りの一部が利根川の北側にも及ぶ。このうち荒川左岸に接する地域に中心市街地がある。そのほとんどが荒川や利根川によって形成された沖積平野であり、豊かな自然や肥沃な大地、また豊富な地下水を有する。”
(同上)
(map under constructing)
このこともあってか、熊谷の水は綺麗だと大人たちから聞かされていたことを思い出す。実家を離れ、東京に越してきたときには、東京の水道水の臭いには慣れるまで時間がかかった。越してきた東京・浅草を流れる隅田川は同じ荒川水系なのだが。
(map under constructing)
記憶を辿ると、幹線道路を走ってみても鉄道に乗ってみても、周りには水田か小麦畑が広がっていた。それは平野であるということと、河川からの水の供給が十分にあるということの証左である。ふと、小学生の頃の社会科の授業を思い出した。市立図書館の郷土資料館で調べる、という課題だったと思う。利根川、荒川の氾濫と治水の歴史、についてである。
よくよく思い出してみれば、登下校路での道草も、よく田畑や農道での遊びに興じていたように記憶している。幹線道路に横がすぐ田畑であり、幹線道路の合間には小さな道、農道、用水路が張り巡らされていた。これらの道・路にはたくさんの生き物がいて、子供としては道草を食わざるを得ない環境と言えるだろう。(もちろん、この「道草を食わざるを得ない環境」というものは、どのようなことから想起されるのか、ということはこの探究の問いの一つである。なぜ、このような環境だと道草を食うのか。)
用水路という道、住処としての道。
そう思うと、私の記憶では、用水路で何かしらの活動をしていたことが多かったように感じられてきた。そこで、用水路についての先行調査を調べてみることを思いたち、まずはWebで熊谷周辺の用水路についての検索してみた。すると様々な調査文献が出てきて、その中でも「熊谷市用水路に生息する水生植物および二枚貝シジミの分布」という文献からは様々な気づきが得られた。本文献の一部を適宜抜粋しながら、水の道である用水路について考えてみたい。
”農業地域の用水路はその岸や川底が水生植物や水生動物が生育する自然河川的な環境として人々に親しまれてきた。”
小学生の頃の道草の記憶からも、たくさんの生物がいたように思う。タニシ、ザリガニ、カエル、アメンボ、名も知らぬ生物や植物たち、、、あげればキリがないが、特に子供からしてみてエース級だったのは、タニシ、ザリガニ、カエル、であろう。初夏から秋の口までの季節にはよく遊んでもらった記憶がある。
フィールドノートより、記憶を頼りに描いた用水路
冬場はほとんど生命の気配はなかった。平野部の土の上では、と付け加えた方が妥当かもしれない。冬はエネルギーをためる季節でもある。山々、土の中、海海。平野部にまだエネルギーの成果はあらわれない。
本文献では、しきりに用水路が生物たちの「住処」である、ということを念頭に調査とその結果が論じられている。用水路とは「住処」なのである。人間にとっては水を運ぶという機能が表立ってしまうが、ゆくゆく考えてみれば自然の営みの一つでもり、生物からしたら住む場所にも当然なりうるのである。
”しかし、用水路の多くが近年、パイプラインの整備と用排水路の分離が進み、生物が繁殖するための貴重な土水路が激減している。”
”人工的な施設とみなされている用水路では、生物生息は重要視されておらず、生物の生息調査はほとんど行われていない。”
機能主義的な考え方が前景化しているのは、用水路業界だけではないだろう。本文献における用水路の観方から得られたのはこの点である。「用水路をはじめとする路(道)には、機能的側面にも様々な面があるのではないか」という点だ。たとえば、道の機能としてまず思い浮かべるのは、輸送・移動の機能である。陸上における輸送・移動のスピードや安全性を上げる機能、とでもいったらいいか。”人工的な施設”としてみなされた道の整備によって、得られる機能である。国土交通省による道路整備などはこの機能を主題としているといっていいだろう。
”しかし、 現在でも未舗装の河床や、コンクリート整形された川底でも堆積土砂が厚く堆積している場所では、 水生植物の群落が発達し、 二枚貝、 甲殻類などの水生動物の生息を確認することができる。 また、 市内広域に網状にめぐらされている用水路、 これらは河川性生物のハビタットあるいは避難場所としての役割が大きいと考えられる。 ”
他方、本文献からは、用水路が人工的であるか否かを超えて、水性生物たちの「住処」としての用水路を調査し記録すべきではないか、というメッセージが読み取れる。「住処」というのは機能としてもみることができるが、どちらかと言えば、生息条件としての住処のようにも見える。(もちろん、住処としての機能が発揮されるからこそ、生息条件ともなるのであるが、この点は鶏と卵のような気もする。)
ここで考えたいのは、輸送・移動を強化するための機能体としての道をついつい考えてしまいがちであるが、道は住処として観ることができる、という点である。(もちろん、景観としての道、ということもあろうし、それ他にも観方はあると思われる。)
住処において、食べること。
道草を食う、という慣用句は、とても間抜けでのんびりしていて、あたかもダメなことかのように捉えられることが多い。道の先にある目的地に早く着きたい、そういう思いからなのだろう。馬よ、草を食べてないで早く目的地にいこう。一方で上記文献から示した通り、用水路、ひいては道がもし「住処」なのだとしたら、道草を食うのは当然ではないか。住処で、食べるということになるのだから。
つまり、道は目的地に続いているものであるとともに、住処なのだということになる。そう考えれば、道草を食うこととは、私たちの生に関わってくるものであろう。
このように考え始めると、ますますわからなくなってくる。道草を食うこととは一体何なのか。わたしたちの人生そのものである、などといってしまったら途端に面白くなくなってしまう。だとしたら、それをどのようなアプローチで結論付けてくのか、どのような表現で表していくのか、が問われるべきであろう。
そう思い、すぐに実際に登下校路を歩いて、道草を食ってみることにした。いや、正確に言えば、登下校路を歩いて、道草の記憶を撮影することを試みた。次頁では、その撮影した写真を並べてみる。
<次頁へ続く>